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二十七曲りについて知りたい。


最終更新日:平成30年12月1日
ページID:32802
 


徳川家康公が関八州の太守として駿府城から江戸に入ったのが天正18年(1590)8月。同年10月には、豊臣側の田中吉政が岡崎城に入城して城下の整備にとりかかりました。慶長6年(1601)に藩主となった本多家が城下町整備を引き継ぎ、矢作川に初めて橋をかけ、菅生川の南にあった東海道を城下へ引き入れました。変更が重ねられた東海道は、慶長14年(1609)以降、まちの防衛と街道筋の伸長のために曲がりくねり、「東海道岡崎城下二十七曲り」と呼ばれる街道となりました。

城下の道は、外敵には城までの距離を伸ばし、間道を利用して防衛することができる屈折の多い道が常で、岡崎はその典型。これが二十七曲りです。吉政は10年かかって二十七曲りの城下町を造ったといわれていますが、徳川の安定政権が続くと防衛の意味もなくなり、城下町・宿場町として栄えていきました。二十七曲りは、欠町、両町、伝馬通から籠田町を抜け、連尺通、材木町、田町、板屋町、八帖町、矢作橋とつながっており、現在のまちなかに、二十七曲りを示す碑を見つけることができます。 


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